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2006年08月06日

細田守『時をかける少女』演出ピークのズレ

観てきました。たいへん満足しました。満足しましたが…何なんだこのモヤモヤは!
単なる屈折したファン心理なのか!?というわけで屁理屈こねてみました。

時をかける少女-公式

段階的にネタバレしていきますのでそのつど警告します。とりあえずネタバレ無しの一般的な感想です。

  • 爽やか感動系が好きな人におすすめ。主題歌の雰囲気そのまま
  • アニメオタク向けでもないしノスタル爺向けでもないよ
  • 男女別なく主人公に共感できそう
  • 思ったよりコミカルで楽しい
  • 作り込みが細かい、下手な実写映画よりも映画らしい
  • あの芝居を実写でやるのは(邦画ビジネスの現状からみて)困難だと思う
  • 同ポ最高
  • ジブリ映画何本ぶんだよ的な一流美術スタッフ
  • マモたんはやっぱりヘンタイだなぁ

自分で書いていて胡散臭く感じるぐらいにマイナス点が見あたらないのですが、
「うぉぉぉぉこれは傑作だぁぁぁぁ」という感じにはならないのです。
あれこれ考えた結果ひとつの仮説を思いつきました。

固有名詞やエピソードの内容は書いてありませんがストーリー構成について詳説するので、察しの良い方はどんな物語か気づく可能性があります。


 


 


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2005年11月24日

神戸グルーヴ・神戸守『苺ましまろ』#6演出研究

この項はセリフや画面の詳細なネタバレを含んでいます。

神戸守氏の演出による長尺の場面を見ていて、そのシーンに非常に没入できることがあります。有り体に言えばシンクロ率MAXと言いますか…。例えば『コメットさん』1話最後とか『エルフェンリート』13話クライマックスとかです。私はそれを勝手に『神戸グルーヴ』と呼んでましたが、その正体が何なのか、今まで分かりかねておりました(音楽のせいかなと思っていた)。

ところが、今回アニメ版『苺ましまろ』の6話を観て何か分かったような気がしましたので、その考察を述べさせて頂きます。何でわざわざ書くんだと問われれば、自分の芸への肥やし(センスないんで理詰めなんです)もしくは偏執的ファンレター(ヨゴレ仕…もとい目立たないお仕事ばかりされてるので)とお答えしておきます。

『苺ましまろ』の6話の一番の見所は、クライマックス?の筆談シーンです(寝ている伸恵姉を起こさないように筆談で馬鹿話をする)。次のカットを見てください。
ichigom6_1.png
前後のカットも描きましたが、私は(c)のカットが素晴らしいと思います。「これが神戸守の真骨頂だ!」と思いました。

さて上図においてそれぞれのカットのつながりを考えた場合、 (c)は別に無くても良いことに注目してください。 (c)は美羽が『シーッ』とやることと千佳がスケブを手元に寄せる描写だけですのでストーリー的には大して意味がありません。『シーッ』をやらせたければ(d)の頭でやれば良いでしょう。

では何故(c)を挿入したのか。ポイントは(c)で手前に置かれたスケブにあるのではないでしょうか。

ichigom6_2.png

スケブに書かれたセリフは少々前のカット(左図No.01)で示されたものです。従って(c)(No.10)からは(01)が強くイメージされます(青線)。

一方、(01)と(10)の間には筆談を行っていないシーン(黄色部分)があり、くしゃみネタ、かつそれが10数秒間続くのでそれなりに強い印象を残します。しかしこの場面全体はあくまで筆談ネタがメインですので、くしゃみネタで話(視聴者のイメージ)が脱線しないよう、(10)のカットで流れを戻そうという意図があるのではないかと思います。

ここまでがひとつ。

次に(10)から励起されるカットが(11)です。演出的には(10)より遙かに重要かと思われます。まずアナと茉莉をロングで捉える事により(16)(17)への伏線を張っています。さらに(11)の構図が最後のオチのカット(27)に対応しています。 (27)の面白さはこの画ならではと思いますが、アナと茉莉が画面外に居るため、(11)で各キャラの位置関係を示しておかないとパッと見理解しがたいと思います。

ということでカット(11)は本場面のキモなわけですが、それを視聴者に印象づけるため(10)が補強として置かれているのだと思います。

先に述べたとおり(10)は別に無くても、ストーリーの意図は伝わります。また推測ですが脚本にも指定は無いでしょう。しかしあえてそれを入れることにより、それぞれのカットが有機的に結合されるのだと思います。

何かに引っかかる事無く場面が頭の中へ素直に流れ込んでくる、そんな神戸グルーヴは、以上の様な些細な小技が積み重なることによって生まれるのではないでしょうか。

またこういった手法(モンタージュ、カット繋がりを重視)を使用する演出家は、実写ならともかくアニメの世界では貴重であると思います。というのもこんにち、作画に頼ってアニメを演出する場合が多く、作画レベルの低さが演出の破綻を招きやすいという状況があると思うからです。

そのなかで、氏のモンタージュ主体の演出手法は、作品のクオリティの低下をくい止める有効な手段だと思われます。また何よりも、予算等が厳しくても『演出』によってクオリティを底上げできるということが素晴らしいと思います。

おわり。

最後に、以上は全て神戸氏の手柄ということになっていますが、事実に相違がございましたら関係者にお詫び申し上げます。またそれが無ければ氏の演出は成り立たなかった、ということで横手美智子氏による脚本は素晴らしかったのではないかと思います。

苺ましまろ 3
B000BI55UG
ばらスィー 生天目仁美 千葉紗子


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2005年11月06日

板東のグーパンとにゅうの泣き顔はイコールである・神戸守の作家性を妄想する

アニメ『エルフェンリート』4話までの感想を元にリライト:2005/11

この文は神戸守監督論とさせて頂きます。なので原作であった描写、あるいは脚本で示されたことを監督の手柄みたいに述べてしまうかもしれませんが、その場合はお詫び申し上げます。

神戸仲間(なんだそりゃ)と話をすると決まって話題になるのが「何で神戸守監督作品はマニアにすらウケないのか」です。今のところの結論は『氏の作家性が見えてこないから』ですが、どっこい私には見えます(ヤバい発言ですね)。その作家性が自分が信者を続けている理由なのですが、そのへんをちょっと述べたいと思います。ちなみにぶっちゃけますと、演出だけを見るなら細田守氏の方が好きだったりします。


地上波放映ではカット&ボカシされまくりだったらしい『エルフェンリート』が記憶に新しいですが、氏の過去作品を見ていくと、暴力とかに代表される『負の感情』を描くことにこだわりがあるのではという感じを受けます。なかでも印象的だったのは、『出撃!マシンロボレスキュー/8話 激突!ジェット対ステルス』において、主人公と悪の側の少年が対決をするシーンでした。

最近のアニメにおいては、戦う少年少女は使い魔とか魔法とかを操り、実際に拳を交える事は少ないように思えます。自主規制のせいかもしれませんが、なんだか冷戦期の米ソ代理戦争を連想させます。

まぁそれはさておき。そういうなかにあって、くだんの対決シーンはお互いが巨大ロボ遣いなのにも関わらずグーでパンチなガチンコのケンカでした。しかも『バキィ!』ではなくて『ごっ』という感じのです。ショーアップされたプロレスのようなケンカではなく、心に響くケンカシーンでした。ちなみに監督自らコンテを切っています。

さすがに『コメットさん☆』ではそんなシーンは無かったですが、あのなかでも『泣く』とか『怒る』とか負の感情を覚えるような場面も割とストレートに描写していたように覚えています。(ライバルのメテオさんが最終的に主役を食ってしまったのもその辺が原因?)

負の感情を伴う行為を正面切って描くというのは、最近の商業アニメにおいてはゆるやかではありますが禁忌となっている気がします(これは主観でしょうか)。『視聴者が気まずくなる描写』はスポンサーが許さないでしょうし、作り手も受け手も「これはCoolじゃない」と思っているような気がします。

突然思いついたのですが、宮崎御大が最近多用する『超大粒の涙』は一種の『照れ』なのではないでしょうか。

もちろん、アニメの中の無邪気な空想世界に対して「現実はそんなに甘(略)」というような馬鹿な講釈を垂れる気はないです。しかし完璧に消臭されハッピーな描写ばかり、不幸な描写もハッピーの為の味付け、では何が本当にハッピーなのか訳が分からなくなると思うのですがいかがでしょうか。

どんな感情も等価に描かれてこそ、各々が真に迫ってくる。

『エルフェンリート』において、にゅう(ルーシー)の不幸な生い立ちを際だたせるために残酷描写を入れる、これは演出ロジックとしてはオーソドックスなものですが、氏はそれを徹底的に行う。
それが神戸氏の作家性なのではないかと、個人的にはにらんでおります。

…あくまでいち信者の妄想に過ぎませんが。


参考:


エルフェンリート 1st Note
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2005年10月21日

『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』にみる細田守のカメラワーク

(2002/11初稿、2005リライト)

先の記事で『カメラは観客の視線の代理』という話をしましたが、これを逆手に取ると色々な演出が可能です。その例として、私が『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』40話の中ですげーなーと思ったシーンを紹介いたします。演出を担当されたのは、鋭い演出やハウル降板劇などでマニア筋から熱い視線を受けている細田守氏です。

話の中盤で、どれみ(主人公)と未来(ゲストキャラ)がセルフタイマーで記念写真を撮るシーン。ここでひとつヘンなレイアウトのカットが出てきます。

おジャ魔女どれみドッカ~ン#40約5秒のカットです。二人がカメラに向かってポーズを取っています。立ち位置の変更はありません。画面からは見切れていますが、どれみは未来の向かって左下に居ます。とすると未来の画面での位置が、左寄せになっているのはおかしい気がします。

このカットはおそらく『写真機の視点を表している』と思うのです。

画面が対象の中心からずれているのは、写真機は意志のない機械なのだからであり、もし人物が中央にあるとしたらそれは主観性を持った視点(写真機に意志がある、もしくは観客がこの場面を覗き見している)という事になってしまいます。この場面では人間はどれみと未来の二人だけなので、第三者の存在を(観客の無意識に)イメージさせてはならないのです。『ふたりだけに流れる時間』という感じでしょうか。

あとは、佐倉未来という人物に、どことなく現実感のない存在(単なる風景)というイメージを付加する目的もあるのではないでしょうか。

演出マニアの深読み?そうかもしれません。単調なカットだから単にハッタリをかましたかっただけかもしれません。

ただ少なくとも作る側にそういった考えがないと
『人物を中央からずらして立たせるとカッコいいよねー』とか
『クレーンを使って人物をなめるように移動撮影するとカッコいいよねー』とかいう
歯止めの効かない状況が生まれるわけで、結果現実感のないフィルムが出来上がるわけです。みんな『マトリックス』の観すぎです(もしくは初期の堤幸彦?)。ちなみにマトリックスでは、例のすごいカメラワークによって逆に「ここは現実世界じゃないよ」という演出をしているわけですね。


おジャ魔女どれみ ドッカ~ン! Vol.10
B00009AV1T
千葉千恵巳 秋谷智子 松岡由貴


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